演劇 泥かぶらの歴史について
「泥かぶら」初演当時の舞台写真から
「泥かぶら」は、眞山美保の処女作であり、作・演出・自演と1人3役を兼ねて昭和27年に誕生しました。10月16日、愛知県一宮市で初日の幕を開けたとき、客席の大半を埋めた紡績の女子従業員の間からもれた、うめくような歓声が舞台へ伝わった。これまで上演してきたどの作品からも得られなかった、ずしりと重い手応えを返してくれたのである。 昭和27年度の芸術祭文部大臣奨励賞を受賞。以来50年近く、世代から世代、人々の心から心へひろがり、最も親しまれ、愛される作品として上演され続けた。 現在、上演回数も15,000回を突破し、現在も上演を続けている。
歴代の舞台写真 | |
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老爺(植村浩吉) | |
第1幕1場 石つぶての中の泥かぶら 老爺(植村浩吉) 泥かぶら(眞山美保) |
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1幕4場 花いっぱいの泥かぶら 泥かぶらは泥かぶら。どんなにしたって泥かぶら。 逆立ちしたって泥かぶら。 泥かぶら(眞山美保) |
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村の童と遊ぶ泥かぶら(眞山美保) | |
第2幕 山門、紅葉あかあかと | |
第3幕1場 山中 次郎兵衛(草村公宣) 泥かぶら(眞山美保) |
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第3幕2場 月光の中の泥かぶら 泥かぶら(眞山美保) |
「泥かぶら」誕生報告(執筆 眞山 美保 初演パンフレットより)
「泥かぶら」は、私の処女作である。と言うより、戯曲を書こうと言う心構えさえなく、劇団に脚本がなくて困っていた折に何かの材料になればと思う程度で書いたものであった。それがはからずも上演の運びになった訳であるが、と言って私が無責任に書き飛ばしたのではないのだ。私が「泥かぶら」を書く時の意識の下に、それより溯って三年の間の強烈な体験があったのである。つまりそれ以前の三年を、私たちは休みなく地方の工場労働者諸氏の所へ芝居を持っていっていた。そこで私たちは、厳しい現実を勉強させられ、労働者諸氏の生活を深く知る機会に恵まれるとともに、深い人間的な交流が始まっていたのである。その結果 、私どもの未熟なせいもあろうが、いわゆる新劇の出物が、常に隔靴掻痒の感のあることを痛感したのだ。私はときどき空廻りする舞台で悲しい思いをくり返し、芸術と大衆の溝が意外に大きいのではないかと何十年前と同じようなことを考えるうちに、さらに新劇それ自体を反省し始めていたのである。そしてわれわれが工場公演を続ける限り、出し物を考えないと、いつまでたっても観客と芝居との間にむなしい一線を残し、東京から廻ってくる「新劇という名の芝居」で終わる危険を感じて、何とかして労働者・農民諸氏の生活感情を基盤にしたものを創らなければいけないと思っていたのだ。
しかし、労働者農民諸氏と一口に言っても、これはまたたいへんな拡りなのである。最左翼の芝居に怒号をもって応える意識の高い労働者から、「君の名は」に涙を流す人々まで。それがまた一家の中で混乱しているのである。古い労働者の父親と、若い世代の息子の労働者と、陽気で働き者のお婆さんと、油気のないパーマネントの雀の巣頭で子供をおぶっている長男のお嫁さんと、新制中学へ行っている子供と、「サイザンス」としゃべりたてる幼児という構成である。工場公演の中では、この人々が一堂に会する時があるのだ、私もはじめ呆然としてしまった。どこに焦点を合わせればよいと言うのか。楽屋で「あぁ東京の新劇俳優は幸せだ」と嘆息がもれることもしばしばであった。しかしその日々の体験をつみ重ねて、これは分析し、感じ取っているうちに私たちがはっとしたのは、そのばらばらば観客が、やはり或る所へくるとぴたりと一致する同じ生活意識に立っていることであった。「サンザイス」と声高にしゃべり出す幼児まで含めて労働一族なのだ。たとえば爆笑の起こる所、水をうったように静かになる所が都市公演のえらばれた客とは明らかに違い、しかも工場は違ってもほとんどどこでも同じなのだ。そのことを私は座談会を通 し、或いは全然解放された工場内の共同風呂の中での噂話までを含めて本当に知ったのだ。私はここに新しい大衆の姿を発見したのである。この層がいかに今まで漠然とミィハァ族という名で概括された大衆と質を異にするか!この違いはまた折を見ていろいろのデータを上げて御報告するが、労働生活がいかに人間を健康にし、楽天的にし、さらに現代社会の病毒の自己への浸透を最小限に食い止めているかを、はっきりと教えられたのである。
私たちはこの人々に限りない愛情と親しみを感じ始めた。したがって私は、この人々に喜んで貰える生活をという要求が強くなったのだ。しかし、現在の新劇の作品にはほとんどこれに当たるものがないのだ。そこに「泥かぶら」が生まれてきたのだが、これだと不思議と観客と舞台がぴったりするのである。私はもしかすればこれが新しい大衆との結びの糸口になりはしないかと必死になった。座談会も二百回は持ったろう。演出部の人に客席の様子を調べてもらったり、手紙の往復をしたりして、皆の声を聞いてみた。どしどし本を手に入れた。日々照明その他のダメ出しをした。何よりも私を安心させたのは、「泥かぶら」は十三歳以上六十歳の人々にまで親しみを持って面 白く見られたということである。これは第一の成功だと思った。しかし意識の高い人々にはすこし物足りなかったかもしれない。私はその人々をその時は、ひとまず考えの外において、多くの素朴な人々に向かって呼びかけたのだ。次の「草青みたり」はもうすこし現実性を付与した。これもまた楽しく面 白いと言う。 私はだんだんこの人々の感情がわかりかけてきたと思ったら、私自身がいつの間にか東京の人から見ると、すっかり「泥くさく」なっていたということである。私は一人で笑ってしまった。「市川馬五郎一座顛末記」は、さらに発展させたつもりである。
「偉大」なる地方観客(執筆 1962年1月 共同通信)
東京生まれの東京育ち、しかも山の手文化の自由さの中にのびのび少女時代をおくった私が、地方公演を思いついたのが不思議に思われたのか、このことがひどく異様なことのように思われ続けているようだ。この二、三年ごしの世評に少し困っている。私は芸術家だから、もちろん思いつめ方が人一倍強いことも確かだが、一方たいへんな合理主義者でもある。「地方公演」に対しても、緻密な 計算があったのだ。
第一は観客の質。私は小さなことが好きではない。演劇と言うものを小劇場におしこめて、小さな声で心理描写 ばかりやっている日本の新劇にうんざりしたのだ。観客が八百以下では絢瀾たる演劇が生まれるはずがない。世界各国、日本の新劇人より声の訓練のない舞台俳優はいないようだ。舞台俳優というものは、一見してそれとわかる「偉大」なものである。マンモス・ビルの中で人間性を抹殺されて、ごく一部の機能しか使わずにいるようなビル街で、これが一番出世したつもりの人間ばかりをお客として選んでいたら、私たちの芸がちっぽけになる。一方、不平満々、劣等感満々、いまにみろと思い、翌日は絶望の谷底に落ち、というような激しい感情の幅を持って大都市をねめつけ、充分に残された自然の美の中で、ときには満ち足りた感情にひたり、人間関係がうるさいまでに濃いなかで、欠陥も長所もごたごたと持ち合わせている地方人こそ、芸術を偉大にしてくれる振幅を 持っているのだ。このことは、意外なほど理解されていない。私が東京生れの東京育ちだから、かえって逆に地方のよさがわかるのではないかなど、最近思うようになった。
第二に大きなホールが必ずあることだ。このごろ、街では公民館ぐらいは持つし、それがなければ、千五百は普通 にはいる学校の講堂というものがある。それらが戦後の変化で手入れさえすれば、じゅうぶん東京の劇場に迫れる条件を備えている。大・中工場のホールはさらに劇場並みだ。それらの建物は、人間を多くいれるためにそもそも建てられたものだから、四百人劇場などという中途半端なものは初めから存在しない。
小劇場を考えたのは、まったく芸術家の一方的なわがままのためだと思う。千人劇場で声を響かせるのは訓練もたいへんだし、疲労度も大きい。しかしその苦闘の中から、舞台芸術というまったく魅力的なフォルムを生んだのだから、わざわざ退化する必要もないと思う。
外国では、現代劇も古典も、同じ俳優が演ずるのだから、シェイクスアを演じられないような声の持ち主は一人もいない。ソ連で現代劇を見たとき、秘密の話をろうろうと,耳をつんざくばかりにしゃべるのに、私は笑い出した。これが演劇というものだ。日本の新劇の、息でばかりしゃべるせりふに、私はげっそりしつづけていたのだ。
地方の観客の美意識も世界なみである。声が響かないと、すぐ野次りだす。“聞こえねいぞ 、めしの喰い方が足りねえんじゃねか!”大きいなホールは演劇に欠くことの出来ない条件である。
第三に、客層が幅広いこと。芝居公演が一年に何ベんもあるわけではないから、その日を実に楽しみに待っている。その期待が人から人に伝わり、職業をこえ、階級をこえ、不思議な人間のかたまりができる。これは大切なことである。何が芸術の敵かといって、 仲間うちだけを相手にするほど危険なことはない。演劇はそもそも葛藤の芸術だから、あまりツーカーではドラマが成立しないのだ。客層がめっちゃめっちゃに幅広いと、幕あき第一声のせりふから無数の反応が起る。同意するもの、反対するもの、中立するもの、客席の波紋が広がり、あっちへぶつかり、こちへぶつかり、対立が活気を生み、客席それ自体のいくつもの葛藤が対立し、糸のもつれは複雑に組んずほぐれつして進行してゆく。 そして最後は、こちらは仕事だから、巧みにそれを構築して、劇場全体は高鳴りをして幕を閉じるのだ。観客は、ドラマにすっかり同意しない場合でも、自分自身がエキサイトしたのだから、悪かろうはずもなく、また自分の責任で嫌でも一石投じられた問題をかかえこんで家路につき、それぞれが考えを続行してくれる。
これがもし、同じような職業と同じような生活感情と、 同じような政治意識を持ち合った人々だけを集めて観客にすると、対立が起らないから、場内がエキサイトするわけもない。日本人のように建て前主義を持ちやすい民族だといっそう対立をさけて、平坦に平坦に、およそ非ドラマ的場内になるのだ。画一主義はドラマの敵である。
私たちは、この「対立の魅力」を教えてくれた地方観客に深い敬意を表すものである。